日本史編② 北海道と沖縄の人の顔は似ている!?
この記事は、弥生時代について書かれています。
歴史が嫌いだったり、苦手な中高生が少しでも興味をもてるように、なるべく簡潔に分かりやすく書きました。
この記事を読み終わるころには弥生時代についての理解が深まっているでしょう。
もちろん、中高生以外の方々も大歓迎です!
赤い文字の箇所は重要な用語でもありますので、一緒に覚えていきましょう。
スタディサプリ該当箇所:スタンダードレベル日本史1講目
2回目の今回は弥生時代について勉強していこうと思います。
今回の内容を簡単にまとめると
日本が弥生時代と呼ばれる頃、中国は秦という時代でした。その当時、すでに中国には稲作文化と金属文化があり、それらが渡来人によって日本にもたらされた結果、日本にその文化が根付きました。
この二つの文化が根付いたことによって、日本は2つの点で大きく変わることになります!
まず1つ目は、採集経済→生産経済になったことです。
縄文時代までは、木の実などを採集し、移動しながらの生活スタイルが一般的でしたが、稲作文化が始まることによって、定住する生活スタイルへと変化していきました。(田んぼを放っておく訳にはいきませんもんね。)
2つ目は、身分差が出来始めたことです。
縄文時代までは、自分たちの食べる分だけを採集しながら生活していたのですが、稲作文化が始まったことによって、お米の生産量に余剰が発生してしまいます。それによって、お米をたくさん持っている人は持ってない人よりも偉いという身分構造が生まれると同時に、生産物をめぐって争いが起こるようになりました。
また、金属文化が入ってきたことによって、以下のように使われました。
青銅器→祭祀用
鉄→農具等の実用的なもの
この時代に使われていた道具や施設
石包丁→稲を刈るための道具
高床倉庫→米を貯蔵するための施設
しかし、なぜ日本の端同士である北海道(アイヌ民族)と沖縄の人の顔は似ていると言われるのか?
それはズバリ、稲作文化が根付かなかったからである。
一体どういうことなのだろうか?
稲作文化を日本に伝えたのは新モンゴロイド系の人たちであると言われている。(古モンゴロイドと新モンゴロイドの説明は前回のブログで説明しているのでそちらを参照してください) その人たちが日本(この当時はまだ古モンゴロイド系の人々が多く住む)に来て稲作文化を伝えると同時に日本での混血が始まったとされる。しかし、この当時の北海道と沖縄はコメ作りの環境に適してなかったことやコメ作りをしなくても生物資源が豊富であったため、新モンゴロイド系の人たちが入ってこず、純粋な古モンゴロイド系の人たちだけで生活してきたためである。
今度は中国にある史料から振り返ってみる。(この時代の日本には文字がなく資料が残っていないため)
『漢書』地理誌によると
貢ぎ物を、倭(日本)→楽浪郡(朝鮮)→前漢(中国)へ送る代わりに その国と王の存在を認める。
このシステムを、冊封体制という。
57年、後漢の光武帝→奴国王に金印(王の証みたいなもの)が送られたことが『後漢書』東夷伝によって判明している。
そして時代は3世紀になり、日本には有名な卑弥呼が登場し、約30程度の小国をまとめあげた。
しかし、意外なことに約30程度の小国の中心であった邪馬台国は、今現在でもどこに存在していたかハッキリと分かっていない。
そしてその後、壱与という女性が王になり、卑弥呼と共同王権となる。
感想
身分差や貧富の差が生まれたことや日本人の主食であるお米が生産され始めたことなど、現代の日本社会の根幹で出来上がったように感じました!
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